日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー329) Amazon
イザベラ・バードというイギリス生まれの女性旅行家が143年前に日本の東北地方や北海道を旅した記録『日本奥地紀行』をすこしずつ読んでいます。
快適だった日光での滞在の後、バードはひとまず新潟を目指します。
この旅程は読んでいるだけでも道中の大変さが伝わってくるものです。また、当時の農村の貧窮ぶりは読んでいて胸が痛むほどです。
第11信 藤原にて
バードは旅の途中の美しい景色についてはやはり賛辞を惜しみません。
五十里(いかり)という村までの道のりでは「私は、日本でこれ以上に美しい場所を見ることは出来ないだろうと思う。(P152)」や、「日光が十分間もふりそそぐと、あたりの景色は美しい仙境に変わってしまう。」などと書かれています。
ただ一方で、新潟までの道のりでは、繰り返し人々の苦しい暮らしぶりや外国人であるバードへの遠慮のない好奇心の表現が語られていきます。(たとえば小百という村では、子どもや大人が何時間もバードのことを飽かず見物し続ける様が書かれています。)
また、食事も鮮度の悪いお米や卵しかないとか、時にはそれすらもなないとか。また、蚤はどこにいっても大量に発生しています。もし僕がこの旅に同行していたら、と考えるとゾッとするほどです。
小佐越という村では、「子供たちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた(P140)」とあります。衛生状況や健康状態の悪いことについても繰り返し語られます。
私は見たままの真実を書いている。もし私の書いていることが東海道や中山道、琵琶湖や箱根などについて書く旅行者の記述と違っていても、どちらかが不正確ということにはならない。しかしこれが本当に私にとって新しい日本であり、それについてはどんな本も私に教えてくれなかった。日本はおとぎ話の国ではない。(中略)女が裸の赤ん坊を抱いたり背負ったりして、外国人をぽかんと眺めながら立っていると、私はとても「文明化した」日本にいるとは思えない。
本書:P141
バードはメインのルートを外れてわざと普通の外国人なら通らないようなところばかりに行くわけですから自然と貧しい村々を通ることにもなるわけですが、少しメインから外れた場所にはこうした貧しい村が点在していたということは事実なわけで、そういう意味ではとても貴重な内容だなあ、とも思います。「文明開化」をアピールしたい当時の明治政府はこういった「日本の恥部」を知られるのは極力避けたっただろうと思われますが。
藤原という村では、日本人の伊藤も音を上げた様子が書かれています。
「ちっとも眠れませんでした。何千何万という蚤がいるものですから!」と泣き言をならべた。彼は別のコースで内陸を通り津軽海峡へ行ったことがあるが、こんなところが日本にあるとは思わなかった、と言い、この村のことや女の人たちの服装のことを横浜の人たちに話しても信じてはくれぬだろう、と言った。
本書:P147
現在では日本はどこでも多少の貧富の差や地域格差はあるにしても基本的な生活は驚くほどに水準が上がっていますが、143年前まではこういったひどい状態の場所がたくさんあったのだということに驚きます。
しかし、生活の水準が上がっても、衣食住足りても人間の心の平安とか幸せを得ると言うのはまた別の問題でもあるのだろうな、とも思います。でも、やはり比較論から言えばこの当時にこういった貧しい村々に住むことはたとえ満たされないものを抱えていたり生きづらさを抱えて現代の日本に暮らすよりはとてつもなく不幸なことにも思われます。表面的には貧しくて汚い生活であっても、外国人にはわからない「幸せ」はあったのかもしれませんが…。
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伊藤についての記述もいくつかありました。
「彼は利口で、旅行中はよく気がつき、異常な知能をもっているので、毎日私を驚かせる。(P147)」とか、英語の習得に非常に熱心な様子を褒めたり、「私がすっかり伊藤を頼りにしていることは、推察できることと思う。(P149 )」など、徐々にバードの信頼を勝ち得ていることがわかり、読んでいる僕もなんとなく嬉しくなります。
ただ、褒めるだけで終わらないのがバードで(笑)、信仰心の薄いことや、英国人の不作法について嬉しそうに広めたり、事あるごとに「上前をはねる」ことを批判したりは忘れません。そういうところは、バードなりのフラットな(とはいっても当時の英国人の見方を反映した)スタンスと言っても良いのかもしれません。
第12信 車峠にて
横川(ぎりぎり栃木)という場所の街路の中で昼食を取ります。ここでもまた群衆がバードを見物に来ます。
群衆は言いようもないほど不潔でむさくるしかった。ここに群がる子どもたちは、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちと同じように、虫に喰われ、税金のために貧窮の生活を送るのであろう。
P158
でも、143年後にはこの出口の無いような貧しい生活から、その後の発展によってとにもかくにも彼らの子孫は抜け出したのだ、と思うとちょっと胸が熱くなるような気がします。
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バードらは川島という場所の宿に辿り着きますが、ここもまた生活の程度はひどいものでした。宿の部屋は下水の臭いが強く、米も醬油もなく、バードが食べられたのは黒豆ときゅうりの煮たものだけだったとありますが、おりしも村は田植え後のお祭りの日だったようで、人々は一晩中飲んで騒いでいて眠れなかったと書かれています。お祭りなら何か食べるものもありそうですが、宿の客に出すものは無いということなんでしょうか。
この夜、宿の亭主の息子がとてもひどい咳で苦しんでいるのを見て、バードがクロロダインという薬を数粒飲ませたところ、すっかり良くなりました。この薬、当時は一般的に使われていたもののようです。
19世紀末からは、コレラや偏頭痛、不眠症などに効く万能薬として、「クロロダイン」という薬が人気を集めます。明治期に日本を訪れたイギリスの女性旅行家イザベラ・バードも、北海道で出会った女性の病気を、このクロロダインで治したと記録しています。これは、アヘンチンキをクロロホルム水溶液に溶かした実に物騒な薬ですが、少なくとも1930年代まで広く使われていたようです。
第4回 「クロロホルムの話」 | 薬剤師の学び | 薬剤師のエナジーチャージ 薬+読 (yakuyomi.jp) より
翌朝、バードの部屋の外には皮膚病や目の病気や腫れ物に苦しんでいる多くの人々が集まっていたとあります。クロロダインで男の子の症状を和らげてあげたことで、村の人達から救世主のように思われてしまったのですね。映画のワンシーンにでもなりそうな光景です。
バードはもちろん医者ではないので、皆を治してあげることは出来ないし、持ち合わせの薬もほとんどないことなどを説明したそうですが、着物をしっかり洗濯することや、身体を清潔に保つことの大切さを説いたり、簡単な治療をしてあげたりしたようです。
村の人々の生活は本当に不潔で、悲惨なものだったようです。このような143年前の村々の惨状を読むにつけ、今の時代の日本に住んでいる我々も、生まれる時代や場所を間違えていればこのような世界に生きていたのかもしれないと思わずにはいられません。
バードは、こういった惨状を記すことについて次のような注釈を書いています。
もし読者が、私がここやほかの個所で述べたことに対して陳謝を要求したいと思われることがあっても、私が、北日本で見たままの農民の生活を忠実に描写することによってこの国に対する一般的知識の向上に役立てたいと希望しており、同時に、この地方の場合と同じように、文明化するのにまず必要な諸条件に欠けている国民大衆の水準をあげようと努力している政府のために、その遭遇すると思われる多くの困難な事柄のいくつかを説明するのに役立てたい、というのが私の望みであることを知れば、了解してもらるに違いない。
本書:P163
新潟までの道のりはまだ続きます。
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