夢日記について

夢日記

2000年頃、友人にすすめられて、ごく初歩のHTMLタグだけ教えてもらいホームページを作っていたことがあります(Yahoo!のジオシティーズというところで作っていましたが、Yahoo!のサービス終了とともに消滅してしまいました)。ホームページでは夢日記をよく書いていました。文字通り、その日見た夢を思い出して書くのです。その習慣は数年間続きました。その後も時々思い出したようにTwitterに夢日記を書くことがあります。

夢は毎日人間が受け取る膨大な情報を毎夜脳みそが整理整頓するために見ると言われているそうです。「夢日記をつけると気が狂ってしまう」と言った話がまことしやかに言われたりもしますが、僕はいまのところ大丈夫(と思っているのは僕だけですか…?)です。

僕は夢を一つのエンターテインメントとして受け取ることにしています。夢を重視しないというのはせっかく毎夜繰り広げられている一回限りの自分専用の劇場での映画の上映会に足を運ばないようなものです。しかもその主人公は自分自身や身近な人たちであることが多いのです(だから嫌だと言う人がいるのもわかりますが)。嫌な映画もあるけれど、楽しい映画や途方もなくおかしかったり、それこそ「夢のような」非現実的な映画もたくさん上映されます。

人間は人生の四分の一から三分の一程度(90年生きるとしたら22年と半年~30年)は眠りの中で過ごすわけです。寝ている間にずっと夢を見ているわけではないですが、夢に注目することで失われた膨大な人生の一部を取り戻すことができるのでは?とも考えます。

また、夢の通い路(ゆめのかよいじ)と言う言葉がありますが、もともとは和歌に詠まれた言葉で、下のように、恋する人との夢の中での出逢いの通路、チャンネルといった意味で使われているようです。

18番「すみのえの」藤原敏行朝臣
住の江の 岸に寄る波よるさへや
夢の通ひ路 人目よくらむ

住之江の海岸に「よる」波ではないけれど。夜の夢の中の恋路にもあなたは人目をさけて現れてくれない。

(引用:百人一首 第18首「住の江の岸に寄る波よるさへや」藤原敏行朝臣 | 百人一首 歌人とうた (siruru.net)

僕にとっての夢の通い路は、自分が何か創作活動をするようなときにヒントとなる「無意識世界との連絡通路」といった意味でとらえています(僕はアマチュアですが曲を作ることがあります)。実際、夢を思い出してノートに書き出すときの感覚と、詞やメロディを作るときに無意識世界とつながるような感覚がとてもよく似ているのです。夢日記を書くことでそんな感覚をまた鍛えなおしたいな、と思っています。

そんなわけで、このブログでは時々夢日記も書いていこうかな、と思っています(一日分だと分量が少ないかもしれないので、何日分かの夢がたまったら、にするかもしれません)。

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