『日本奥地紀行』イザベラ・バード著 高梨健吉 訳 平凡社ライブラリー その1

本の紹介

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著者のイザベラ・バードは1831年イギリス生まれの女性旅行家です。

イザベラ・バード – Wikipedia

イザベラ・バード – Wikipedia より

脊椎の病気で病弱であった彼女は、医者の勧めで健康のために23歳で初めてアメリカやカナダを旅行したのを皮切りに、その後中年に差し掛かってさらにオーストラリアやニュージーランド、ハワイへ行ったり、ロッキー山脈を馬で越えたりもしたそうですから、病人だったとは思えない行動力です。また、当時は今以上に女性であるということも旅行者としては制約がありそうですが、それを考えてもものすごいバイタリティだなあ、と思います。

1878年、47歳の時に初めて日本に来て東北地方や北海道を旅して、本書『日本奥地紀行』(原題:Unbeaten Tracks in Japan)を1880年に出版して絶賛されたそうです。

その後もチベットやインドや、朝鮮などなど旅を続けて72歳で亡くなっています。

イザベラ・バードが日本に来た1878年はいま(2021年)から143年も前になります。

明治政府の成立が1868年なので、まだまだ日本が近代的な国家になる過程の頃です。

まだ頭の方しか読めていませんが、当時の日本人の様子や暮らしぶりが外国人旅行者の視点で細かく描写されているのがとても面白いです。

143年前ともなればイザベラ・バードは地理的に離れたところから日本を訪れ、僕は時間的に離れた場所から当時の日本を訪れるという点でどちらも旅行者としての条件はそう変わらないとも思えます。

僕も少しずつ旅をして(読んで)、気になったところを紹介できれば、と思っています。

この本はイザベラ・バードが妹にむけて書いていた手紙をもとに書かれていることから、第一信、第二信、といった章立てになっています。(全部で四十四信までありますので、かなり気長な旅になりそうです。)

第一信 日本に上陸

上海からシティー・オブ・トーキョー号という船で東京湾に入ってきたイザベラは、はじめて富士山を目にします。

甲板では、しきりに富士山を賛美する声がするので、富士山はどこかと長い間さがしてみたが、どこにも見えなかった。地上ではなく、ふと天上を見上げると、思いもかけぬ遠くの空高く、巨大な円錐形の山を見た。海抜一三,〇八〇フィート(3986メートル)、白雪をいただき、すばらしい曲線を描いて聳えていた。(中略)それは素晴らしい眺めであったが、まもなく幻のように消えた。

本書:P23

この時の富士山の眺めは、例外的なものであったと注にありましたが、まるでイザベラ・バードを歓迎するかのような姿だったのでしょうね。

サンパンと呼ばれる舟で働く男たちの描写があるのですが、

頭のかぶりものといえば、青い木綿の束(手拭い)を額のまわりに結んでいるだけである。その一枚の着物も、ほんの申しわけにすぎない着物で、やせ凹んだ胸と、やせた手足の筋肉をあらわに見せている。皮膚はとても黄色で、べったりと怪獣の入れ墨をしている者が多い。

本書:P26

とても痩せた様子や黄色い肌、怪獣の入れ墨など、興味深いです。怪獣ってなんだろう?竜のことなのかな?

【写真あり】江戸時代の刺青を徹底紹介!罪人に彫られた入墨刑が恥ずかし過ぎる(3) | 江戸ガイド (edo-g.com)

江戸時代の入れ墨について↑のようなブログもありました。

明治といってもまだ10年しか経っていないこの頃は、ヤクザとかそういった人でなくても、一般的に入れ墨を入れている人が多かったのでしょうね。

この本の中に出て来る日本人の見た目に関する記載は割と手厳しいものが多そうです。がにまた、猫背、貧相、といった言葉が多いです(笑)。背も低く、今と比べればきっと栄養状態もだいぶ悪かったんでしょうが、今のように太り過ぎで悩む人は少なかったんでしょうね。

税関の外には人力車がたくさん並んでいたそうですが、人力車が発明されたのは7年前(1871年)という記述や、人力車は1つの都市に2万3千台もあるとか、職業的な寿命は5年しかないとか、知らなかったことが書かれていました。

第一信の最後に、英国代理領事のウィルキンソン氏が訪ねてきた、という記述があるのですが、

ハイラム・ショウ・ウィルキンソン – Wikipedia

日本旅行で大きな障害になるのは、蚤(のみ)の大群と乗る馬の貧弱なことだ」と言われたとあります。

日本は今でこそ清潔なイメージがありますが、そんなに蚤だらけだったのですね。時間旅行が出来るなら当時の日本に行ってみたいですが、蚤などの虫が多いのは大変そうですね(無駄な心配)。

第二信 ハリーパークス夫妻が会いに来る

この章では駐日英国公使であったハリー・パークスの夫妻が訪ねてきた、と書かれています。

ハリー・パークス – Wikipedia

サー・ハリーは若々しい顔の人で、まだ中年に達していない。やさ形で敏舌であり、色白く青い眼をした生粋のアングロ・サクソン人である。明るい髪と明るい微笑、態度も明るい温情がこもっている。この人が、三十年間も東洋で活躍し、かつては北京の牢獄に苦しみ、日本では多くの危ない目にあってきた人だとは、その様子からは片鱗さえもうかがうことはできない。

本書:P32

日本での危ない目というのは、パークス襲撃事件のことだと思われますが、そんな歴史の登場人物が部屋にやって来るなんて、すごいことですね。英国人同士ということで異国で出会えるのはきっと心強いことだったと思います。

ハリーパークスの年齢はこの時、50歳だと思われますが、「中年に達していない」ってちょっと違和感がありましたが、それだけ若く見えたんですかね?

第三信 横浜から東京へ 

この章では、滞在している横浜から東京までの汽車の旅が書かれていて、とても新鮮です。1872年に開通したと書かれているので、まだ6年しか経っていない頃です。横浜駅で働いている人々は大体が洋服を着た日本人ですが、切符切りは中国人、車掌や機関手は英国人、とありました。

車両は1等から3等車までありますが、豪華な1等、2等車にはほとんど人がおらず、3等車にはたくさんの日本人が乗っていた、と書かれています。

日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである。顔に色つやがなく、髭を生やしていないので、男の年齢を判断することはほとんど不可能である。

本書:P37

日本人に対する描写、やはり結構辛辣(しんらつ)です。でも、これが偽らざる印象だったのでしょうね。ただ、一方で和服を着ている日本人についてはもう少し好意的に書かれていたりもします。

汽車が終点の新橋に着くと、3等車にいた200人の日本人が一斉に降りて、併せて400の下駄が鳴る音がした、と書いてありますが、その音を僕も聞いてみたかったなあ、と思いました。

僕の今の職場は品川区なのですが、そのあたりの風景のことなども出て来るので、なかなか感慨深いです。

第四信 そして旅の案内人決まる

この章では、まず中国人の話題に触れています。この当時の横浜には1100人以上の中国人がいて、彼らがいなければ「横浜の商業活動はただちに停止するであろう」とまで書かれています。商魂たくましく、お金をたくさん持っていて我が物顔に街を歩く辮髪の中国人たちの姿が描写されています。中華街の源流はこの頃からあるのですね。↓のブログを見ると、1859年に横浜港が開かれたのをきっかけに欧米人が日本人との間の通訳として中国人を雇ったことが中国人が増えていった由来であると書かれていました。

「横浜中華街」が誕生した理由 | 雑学ネタ帳 (zatsuneta.com)

この章ではその後、東北~北海道への旅に出るにあたり、「召使い兼通訳」が決まったということが書いてあります。ちょっと今の感覚だと「召使いって!」と思いますが、とにかくイザベラは適任者を探していました。

応募者はたくさん現れますが、これは、という人材には巡り合えない中、イザベラは不本意ながらも一人を選ぼうとしていました。その時、紹介状も持たずに18歳の青年が現れます(wikipediaを見ると実際は20歳であったとあります)。

背の高さは4フィート10インチに過ぎなかったが、がにまたでも均整がよくとれて、強壮に見えた。顔は丸くて異常に平べったく、歯は良いが、眼はぐっと長く、瞼が重く垂れていて、日本人の一般的特徴を滑稽化しているほどに見えた。私は、これほど愚鈍に見える日本人を見たことがない

本書:P46

かなりひどい言われ様ですが、彼は若いなりにいろいろな経験を積んでおり、イザベラの旅行予定である北部日本への旅行歴があり、また植物採集家のマリーズ氏のお供で北海道へ行った経験もあることがわかります。チャールズ・マリーズ – Wikipedia

私はこの男が信用できず、嫌いになった。しかし、彼は私の英語を理解し、私には彼の英語が分かった。私は、旅行を早く始めたいと思っていたので、月給一二ドルで彼を雇うことにした。(中略)

彼の名は伊藤という。これからは彼について書くことが多いであろう。このさき三か月間、彼は守り神として、またあるときは悪魔として、私につきまとうであろうから

本書:P47

物語の導入としてはなんて魅力的な展開なんでしょうか。しかし、 「この男が信用できず、嫌いになった」 って(笑)。

ちなみに、伊藤は伊藤鶴吉という名で↓のwikipediaにも記事がありました。

伊藤鶴吉 – Wikipedia

伊藤鶴吉 – Wikipedia より

この写真はもっと後年のものだと思いますが、「日本人の特徴を滑稽化」とか「愚鈍」とか、そんな風貌には見えないですよね。やはり文化が違うと見えるものが違うのでしょうね。

あまりこの本に興味のない人も多いかと思いますが、自分のペースで読んで書いていきたいと思います。

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