『死の壁』養老孟司

本の紹介

養老孟司は解剖学者で、当然、人間の死体に触れる機会が多いという意味で「死」に近い人なのかもしれません。そんな養老さんが死をめぐるいろいろな問題について持論を展開されています。

特に印象に残った内容を書いていきたいと思います。

なぜ人を殺してはいけないのか?

「なぜ人を殺してはいけないのか?」

実際、殺してしまおうと思えば、それは簡単なことです(青酸カリでも出刃包丁でも木の杭でも)。だけど自然が作った生き物、たとえば虫を一つとっても、それと同じものを作ってみろ、と言われた時に人間は自分たちで作ることが出来ない。ましてや人間など作ることはできない。そんな複雑で尊いもの=人間を含む生き物を簡単に殺していまっていいわけがない。一度殺したり壊してしまえば取り返しがつかない、ということを書かれていて、確かにそうだな、と思いました。仏教の説く殺生をしていはいけない、という教えもこういったところからも来ているそうです。

ブータンのお爺さんのエピソードも面白かったです。ビールを飲もうとしているおじいさんのコップに蠅が入ってしまった時に、そのお爺さんは蠅をつまみ出して助けてやる。それを見ていた養老さんに「お前のお爺さんだったかもしれないからな」という話。輪廻転生を信じる人々の話でもありますが、自分で作れもしない生き物をみだりに殺してはいけない、という戒めだと思いました。

いまはそういう感覚をかなり無くしてしまったけれど、僕自身、中学生の頃、虫を簡単に殺してしまうことにものすごく抵抗を感じていた時期がありました。たとえば家に入ってきた虫を両親が簡単に殺すことに抵抗を感じて、コップに入れて外に出してあげたり。当時は頭でっかちだったし、若さゆえの潔癖さとも言えるかもしれませんが、あれって何だったんだろう?とたまに思い出します。

死体の人称

「死体」には3つの人称が存在することに養老さんは気付かれたそうです。

  • 一人称の死体ーーーこれは自分自身の死体であり、原理的に人間は自分の死体を見ることが出来ません。観察できない、客観的に見ることができないため、人はそのことをどうしても考えてしまう。
  • 二人称の死体ーーーこれは自分でも他人でもなく、あなた、君、といったごく近しい人の死体です。そういった人たちの死体は、どこの誰ともわからない死体とは全く違った意味を帯びてきます。養老さんの解剖学教室で、皆が教わっていた解剖学の先生が亡くなって献体として解剖学教室に来た時に、教室の皆がものすごい拒否感を示したそうです。それはやはりその先生の死体がいつも解剖している三人称の死体、ではなく他ならぬ二人称の死体であったからです。
  • 三人称の死体ーーー自分とは直接関係のない、誰かの死体のことです。多くの死体はこれにあたります。「交通事故で亡くなった人の数」「第二次大戦で亡くなった人の数」などは単なる数字に置き換わってしまい、リアルな死や死体とはかけ離れたものになってしまうという指摘には少しドキッとします。

清めの塩から見える死への考え方

葬式に行くと、必ずもらう清めの塩。玄関で家に上がる前に塩をかけて清める人が多いと思いますが、それは死んでしまったが最後、その人は我々生者とは違う「穢れ(けがれ)」であるという考えが一般的に持たれているからだ、ということが書かれていました。僕も、深く考えずに葬式に行って帰ってきた後に塩をかけていたことがありますが、ある時、その行為は亡くなった人に対して失礼な感じがして今はかけないようにしています。この清めの塩に代表される慣習に、日本人の死者との距離の取り方(死を遠ざけよう、遠ざけようとするような)が見えてきます。それが良い悪い、ではなく、そういった特徴的な文化を我々は持っているのだな、と思いました。

詳しくはないですが、映画などで見聞きするメキシコの人たちの死生観には個人的に興味があります。メキシコの陽気な死生観 | 供養で行う祖先崇拝 (ancestral-memorial-service.net) 彼らは「死」や「死者」を特別視せず、何か地続きの世界であると認識しているようです。メキシコのお土産には高い確率でドクロがあしらわれているのもそれに関係しているのかな、と思います。

こういった死への考え方の違いにより、国によって人工中絶に対する拒否感や、脳死判定の難しさ、死刑に対する考え、安楽死の是非などにつながってくるそうです。

安楽死、間引き、死刑は誰が行っているのか?

安楽死、間引き、死刑といったことを語るとき、われわれは大抵その是非のみを気にしますが、養老さんは、それを実施する誰かがいるのだ、と言う指摘をされています。安楽死であればドクターやその他の医療関係者、間引きであればかつては産婆さんが村などの共同体の了解の中で行ってきた。死刑は死刑執行人が。このことはついつい忘れてしまう点だと思いました。確かに、それを実施する人たちの心の問題や、背負ってしまう想いの重さを僕はあまり考えたことがなかったです。

自殺をしてはいけない理由

のほほんと生きている僕でも、若いころは、ふと自殺が頭をよぎることもありました。養老さんは自殺についてこう書かれています。

自殺がいけないという理由は、大きくわけて二つあります。一つは自殺は殺人の一種であるということ。だから「なぜ人を殺してはいけないのか」というのと同じ理由です。もう一つは自殺がやはり、周囲の人に大きな影響を与えてしまうということです。「二人称の死」なのですから。

本書:P174

自殺をしようとしている人に対して説得力はあるかはわかりませんが、今の僕は「確かになあ」と思いました。

その他にも気付かされることが多い一冊でした。是非、ご興味持たれたら手に取っていただければと思います。

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