ぼくがいま、死について思うこと (新潮文庫) Amazon
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椎名誠が死について考えた本。
といっても、椎名誠が自分自身の「一人称の死」について掘り下げたような内容を期待していると、ちょっと肩透かしを食らうかもしれないです。
どちらかと言えば世界中の死んだ人の葬り方だとか、昔の日本ではどのように葬っていたか、あるいは椎名さんがこんなことで死にかけた、といった内容が多いです。
とはいえ、大変面白く読みました。
椎名誠を読むのは久しぶり
椎名誠は、僕が小学生や中学生の頃に好きでたくさん読みました。
「あやしい探検隊」とかSF系の作品、あとは特に好きだったのは息子のことを書いた『岳物語』などの私小説の系列。
当時は軽い文体の中に人生の機微みたいなものを感じて好きだったし、いろいろ影響を受けました。
中学校1~2年の頃にどこか近郊の街で椎名誠の講演会があるのを知って、剣道部の練習を休んで父親に連れて行ってもらったことがありました。
雨が降っていました。あれはどこの街だったんだろう?
すらりとしたジーンズ姿でカッコよく、たぶんその頃は椎名さんも40代くらいだったんでしょうか。
ところが、高校の時にものすごくクリエイティブなT君という友達(演劇祭で自作の戯曲を書いて演出してしまうような人)と話している時に、
「椎名誠は三文小説家だからダメなんだよ」
みたいなことを言われて、「ガーン」となったのです。
その頃、僕ももう少し小難しい小説などを読んで背伸びをしたかったのかもしれないですが、彼の「三文小説家」という言葉に感化されて椎名誠を全然読まなくなってしまったのでした。
考えてみればT君に影響されすぎですが、そんな風に誰かの一言で世の中が赤く見えたり黒く見えたりするのも若さの面白さかもしれません。
いまだったら少し反論したりもするかもしれないですが。
再び出会う
図書館で本と出会うのが好きです。
新刊の本屋も好きですが、新刊の書店では回転が速く、どうしても少し古めの本には出会いにくくなるし、イレギュラーな出会いを期待するなら図書館はとても良いです。
この本を他の誰かも読んだんだな、などと考えるのも好きです。
(新型コロナを気にする人や潔癖症気味の人は敬遠する人も多いのでしょうか。)
古本屋も同様に好きです。
この本とも、返却されたばかりの本を一時的に並べておく棚で出会いました。
「椎名誠か。久しぶりに読んでみようかな」と思いました。
人間同士だと、30年も疎遠になった友達とはもう二度と会えないか、会ったとしても昔のように友達に戻るのは難しいかもしれませんが、本と言うのはいつでも笑顔で出迎えてくれる友達のようなものかもしれません。
死について考えること
さて、久しぶりに読んだ椎名さんの本は、死についてのものでした。
椎名さんの主治医になっている精神科医の中沢正夫医師から、
「あなたは自分の死について真剣に考えたことはこれまで一度もないでしょう」
と言われるところから本は始まります。
椎名さんは本当に、真剣に死について考えたことが無かったそうです。
でも考えてみればそのような人が多いのではないでしょうか。
本当に死に至る病におかされでもしない限り、本当に自分の死のことを思う、というのは難しいと思います。
僕も、なんでもない健康ないま、死を思うことが大事だと常々思ってはいるのですが、そこで考える死というのはやはりどこか他人ごとというか、差し迫ったようなリアリティをもって考えると言うのは難しいものです。
椎名さんは、本書でも触れられている通り、もう少しで死にそうだった、という経験を多くされています。
若い頃の交通事故で死にかけ、雪崩に巻き込まれて死にかけたり、チベットの山の上で乗っていたトラックが横転してもう少しで崖から落ちかけたり…。
いや、そこまでの経験をしながら死について深く思わないと言うのもすごいな、と思いますが・・・(笑)。
でもそうならなかったというのは、椎名さんが基本的には日々充足し、ポジティブな人だからなのかもしれません。
(本の中ではポジティブだった椎名さんが鬱になっていた時期があったとも書かれているのですが。)
世界の葬儀いろいろ
この本では、世界中の葬儀に関する解説もいろいろあって興味深いです。
それは椎名さん自身や奥さんの渡辺一枝さんの様々な国への旅を通じて見聞きしたもの、またアメリカ在住の娘さんからの情報やいろいろな本をベースに書かれているので、とても生々しく伝わってきます。
(知らなかったのですが、奥さんもものすごい探検家なのですね。)
チベットの鳥葬(鳥に死肉を食べさせる)、モンゴルの風葬(狼や鳥などに死肉を食べさせる)、インド・ネパールの水葬(死体をそのままガンジス河やその上流の河に流す)、アメリカや日本の葬儀の話など。
それぞれの国のそれぞれの葬り方に土地に根差した思想や信仰があり、死を悼む気持ちがあり、合理性もあったり。
たとえばモンゴルでは草原が多く遺体を焼く材料が無いため火葬は行われないとか、そういう理由もわかって大変面白いです。
自分の馴染みのない文化で行われている、一見野蛮だったり理解に苦しむような風習なども、そこには必ず歩み寄れば理解できる理由があったりするのだと思います。
そういったものに心を開いていられる自分でありたいと思いました。
お母さんの死の知らせ
椎名さんがお母さんの死の直前に、予知夢を見た、ということが書かれていて、印象的でした。
その予知夢を見た時、椎名さんはわけもなく、お母さんの死を確信したそうです。
午前三時ごろだったそうです。
その後午前七時頃にお母さんが倒れて病院に運ばれた、という連絡が入り、車で向かう途中の午前九時に亡くなった知らせがあったそうです。
こういったことって、あるんだろうなあ、と思わされました。
そういえば、中学の頃の国語の先生も似たようなことを言っていたと記憶しています。
できればずっと先であって欲しいですが、僕の肉親が亡くなるときにそいういったことがあるのかも、などと少し思いました。
もしくは僕が死ぬときに誰かに伝えたくてその人の夢に出たり…。
一人称の死を書いて欲しい
この本の執筆のきっかけとなった精神科医の中沢先生があとがきを書かれていて、その中で
一人称の死(やがて来るわが身の死)については、まだ書く気になっていないように見える。私はこの続きを書いてほしいと思っている。『岳物語』や『孫物語』のシーナマコトが、「迫りくる自分の死」にどう悩み、折り合い、逃げ、どこで腹を固めるか……を。
本書:P217
と書かれています。
僕も同感です。
そして僕は僕で、自分の死について、少しずつ考えていきたいと思っているのです。
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